私達結婚しました。
家もない!!!金もない!!!食べ物もない。
昭和24年頃の大阪は、まだまだ復興の兆しが無く。勿論家なんてある訳がありません。当時の私は郵便局の寮、と言っても、桜川にあった電話局の焼け跡を改装して、20ばかりの部屋を作り、そこで友人と2人一緒の生活をしていましたので、甘い新婚生活なんかは到底望むことは無理だったのであります。

家内は布施の姉夫婦の家に居候。私は郵便局の寮で男2人の生活。現在のように何処にでもあるラブホテルですが、当時は焼け跡に少しばかりあったと思いますが、利用するには非常に高額なお金が掛かるために駄目。そこで、同室の友人に頼み込んで、その友人が宿直勤務の際に新婚生活を味うことになりました。

しかし、その寮の部屋はバラックのような作りのため、あちらこちらに隙間があり、廊下を通る人には部屋の中が丸見えなんでした。でもそこは若い2人のことです。一つの布団に仲良く並んで僅かの一時を一生懸命に子作り???に励んでいたものです。あくる日に出勤すると寮の友達に良く冷やかされていましたが、何故か幸福感が漲っていることを感じていたのであります。

同室の友人には迷惑を掛けながら、2人しての幸せを満喫することが出来たことを、今更ながらその友人に感謝しているところであります。それから暫くして、大阪は西区の九条に3畳一間の貸室を見付けて、本格的な???新婚生活が始まったのであります。次は長男誕生からのお話を掲載することにしますが、この長男は始めて寮の部屋で結ばれた時に授かった、記念すべき男子誕生の証となりました。

又明日。当時の思い出の写真がありませんので、文章ばかりでお許しくださいませ。キューちゃんでーす。
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# by otc123jp | 2009-06-22 12:48 | 戦後の想い出
ダンス教室
楽しいダンス教室
当時は戦後の自由民主運動が盛んで、郵便局には労働組合があり、私は組合の青年部長をしていました。何分郵便局の組合は当時共産系の組合で、支部長をはじめ組合幹部らは管理者と同等の立場で物を言う時代でしたが、私は青年部長の立場を利用して、組合員のためのダンス教室を開くことになりました。

電信課勤務の頃、昼間の空き時間を活用し野田阪神にあるダンスレッスン場に通っていたことがありましたので、そこの先生から郵便局の若い男女のサークル活動にも効果があるので、教室を開いたらどうかと相談を受け、私も助手としてダンスを教えることになったのであります。

当時の郵便局には普通郵便局にも、特定郵便局にも若い女の子が勤務していましたので、組合を通じてダンス教室の呼びかけをすることになりました。

世はまさにアメリカナイズされて、特にダンスは若者にとって憧れの対象でしたから、呼び掛けに応じて、ナント若い女性が続々と集まり、自分の局のメンバーより特定局の女性がワンさと押しかけてきて、嬉しい悲鳴を上げていましたが、男性の不足から、女性同士のレッスンも始まり、私としては次から次と女性を誘い、ダンスのレッスンを続けていました。男冥利に尽きるとはこのことですね。

ここで、ある特定郵便局からきていた、女性の姉妹が他の人を超えてダンスの才能があり、素晴らしく上手でしたので、特に私が熱心に教えるようになり、次第にお茶や食事の付き合いが始まり。ダンスレッスンを超えた交際が始まったのです。

ただ女性二人が相手では本当のデートではなくて、何故か次第に2人きりのデートを望む心境になり、色々と話の内容が判るにつれて、姉妹の姉は既に結婚しているとのことで、それより後は次第に妹との2人きりのデートが続くようになりました。

ここで今回は終わりにしますが、この妹が私の結婚相手と決まり約1年の交際の末私の妻となったのであります。また次に報告します。オヤスミナサイ。

当時の妹の写真です。可愛かったね。

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# by otc123jp | 2009-06-21 16:50 | 戦後の想い出
楽しい郵便局での色々
戦後の思い出NO.2 楽しかった毎日\(^o^)/
泊まり明け、泊まり明け、そして、日勤、と各番勤務の毎日が続きましたが、当時の勤務表によりますと、日勤の殆どは週休となり、夜の仕事ばかりの連続でした。まるで泥棒家業だねと友達にも言われていましたが、昼が休みということは、カメラ探訪には最高の条件だと、喜んでいたのであります。

何故か、泊まり勤務で、これが又楽しい想い出に繋がるエピソートがありますので、紹介することと致します。

当時の郵便局の電報の受付は、夜中でも緊急電報があり、仮眠はしていても、いつ窓口に来客があるか判らないので、気を緩めることは出来ません。しかし、毎晩そんな緊急電報があるわけではなく、待機中でも愉快なことがあることに気が付き、当時の中央電話局の泊まりの女性に無料の電話を掛けることを思い立ち、市外通話専用の105番に電話をして、交換嬢との会話を楽しむことにしたのであります。

「今晩3389しませんか?」という電話専用の合言葉で、楽しい会話を長々としていましたね。当時はお互いに若い者同士、勤務が明けたら映画でも見に行きませんか?等と、知らないもの同士が、デートの約束をするのでした。3389とはささやきですね。

勤務あけの9時に大阪駅の待合室「当時はありましたね」でね。お互いに知らないもの同士のデートですから
自分の服装、そして、相手の服装を聞きだして、心そはそはと、踊る心を抑えながらの楽しい一時でした。

泊まり勤務の寝不足なんかは何処かに吹っ飛んで、どんな可愛い子が来るのかと、目を皿のように光らせながら待ち合わせをしたのでした。

毎晩の泊りには、相手も変わりますから、先ず電話による相手の声を聞いての判断で、デートの約束が成立するのです。このようにして、デートの約束を成立させて映画や公園の散歩等をした女性はナント50人はくだらないと振り返って考えているところです。しかし、お互いに遊びの心を持ってのデートからか、あまりにも若かったことのせいか、セックスや結婚までの話などはあまりありませんでしたね。でも意気投合の上公園の草叢でのペッティング、焼け跡の暗い建物の影でのエッチ、またラブホテルまで同行した女性はありましたね。

このようにして、勤務あけの毎日を?有効に活用していましたが、やがて、電信課勤務から貯金課勤務にとなり、毎日が日勤で土曜日は半ドン、日曜日だけの休日となったのであります。

あまり長くなりますと、最後まで読んでくれる人がなくなりますので、ここら辺でお休みとします。またね。
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# by otc123jp | 2009-06-20 16:10 | 戦後の想い出
焼け跡からの復興
戦後の大阪市内♪ ♪ 赤いリンゴに唇寄せて、黙って見ている青い空、リンゴは何にも知らないけれど、リンゴの気持ちは良く判る、リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ ♪ ♪
あの並木路子が歌う声が、戦争で焼け野原になった、大阪市内でラジオから流れてくるのを耳にしながら、私は大阪駅前からナンバまでの御堂筋を歩いていたのであります。

当時は大阪駅前の闇市で、中古カメラが並んでいるのを見ながら、指をくわえて我慢の連続でしたが、ある日のこと焼け残った阪急百貨店での中古カメラの即売会が目に付き、逸る心を抑えながら飛び込んでいたのでありましたした。

何処から集めたのか、懐かしいカメラ「ハンドカメラ、セミイコンタ、ミノルタフレックス、ローライコード」等それはあらゆるカメラが一堂に集められて販売されていたのでした。それに当時の価値では非常に安く、私でも購入できるほどの価格でしたので、想い出のカメラを購入し、帰宅してはそのカメラを眺めたり、手入れをして楽しんでいました。

話し忘れていましたが、当時私はある人の紹介で郵便局の電信課に勤務していましたが、電信課は殆どの勤務が泊まりでしたので、あくる日は明け勤務となり、昼は毎日仕事が無く退屈していましたので、阪急百貨店の休日以外は毎日カメラ売り場に出掛けて、今で言うウインドウショッピングよろしく、好きなカメラとのご対面
を繰り返していたのであります。

このようにして、郵便局の電信課に勤務出来たのは、航空通信学校での経験から、電報の発信や受信の仕事に就けたので、当時としては給料もたっぷりと頂いていました。勿論宿直手当が多いこともありましたが。

この続きはまたのことにしまして、今回はここらでおしまいに致します。最後まで熟読有難うございました。
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# by otc123jp | 2009-06-19 15:45 | 戦後の想い出
終戦そして復員
「日本はポツダム宣言を受け入れました、長かった戦争が終わりました」「日本の兵隊さんは懐かしい故郷で、ご両親や奥さん、そして、可愛い子供さんの元に帰れますよ」

これは戦争当時からのデマ放送で、ラジオの電波から流れてくるものでした。私は陸軍の航空通信学校の助教で、毎日無線機からの放送をチェックしていましたので、その放送を聴いた時でもまさかとの思いで信用はしていなかったのであります、

ところが、それから3日程したある日のことでした。教育隊長からの訓示があるからと、校庭に全員集合が掛かりました。なんだか変な空気が校内に流れている中、隊長からは重々しい言葉で、戦争は終わった、各員軍からの指令を待て。それは昭和20年8月15日のことでありました。

何が何だか判らない内に、校内の生徒は直ちに帰郷の命令で全てが復員して、私らは残務整理等もあり、やっと8月30日になって、復員することになりました。

当時の私は母親の里である広島県の瀬戸内海に浮かぶ小さな島に復員することになり、身の回りのものを纏め、岡山県の勝間田にある日本原飛行場から、満員の復員列車に揺られ、尾道から巡航船に乗り、母の故郷である、弟達の待つ故郷に帰り着いたのであります。

勿論その時には私と一緒に軍隊生活を共にした「フォースデルビー」が肩に掛かっていましたね。でも、やがて、戦後の辛い生活が暫くの間続いたのは、例え母親の生家とはいえ、兵庫県の芦屋から戦火を逃れて疎開してきた我々家族にとっては本当に疎開者扱いもあって、米なんかは殆ど口にすることが無く、家族も皆んな痩せ細り、哀れな環境でありました。

こんな生活が約1年ほど続いた頃、今までの都会生活に馴れた私にとっては、とても我慢が出来なくて、田舎で工事関係の仕事をして得た小遣いを貯めては、神戸まで列車に揺られて遊びに来たものであります。

戦後はフイルムも不足でしたが、神戸の闇市に行けば買うことが出来ましたので、焼け跡や港の風景を撮影して、楽しく過ごしていたのであります。ところが、さあ大変、大阪にも出掛けて見たいと思って、阪急の三宮駅で切符を買うべく肩からカメラを下ろして、財布からお金を出しその切符を貰ってフト横を見ると、ナント我が愛する「フォースデルビー」が私の視野から完全に消失していたのであります。

この続きは又にします。思い出しても悲しい出来事でありました。(*^_^*)犯人が憎い。

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# by otc123jp | 2009-06-17 17:05 | 戦後の想い出