カテゴリ:戦後の想い出( 10 )
ミノルタオートマット H21.6.30
2台目のミノルタオートマット
時代が遡ること8年。思い起こせば昭和16年の秋のことでした。旧制中学校の2年生だった頃のことでした。
私の父親はカメラが好きで、ベスト判のカメラでドイツ製のイハゲウルトリッククス、テッサー75ミリF3.5付きを使っていましたが、私には絶対に手を触れさせない程厳しい状況でありました。ダブルヘリコイドです。

また、風呂場の隣には暗室もあり、そこにはドイツ製の6×9判の引き伸ばし機もありましたが、これも使わせて貰えませんでした。触るな、使うなと言われれば尚触りたい、使いたいという心が沸くのは子供心にも当然のことでした。

それがために、トーゴーカメラやミゼットを父が私に買い与えてくれていたのですが、ある日祖母にお願いして暗室の使用を頼みましたが、やはり駄目だとのことで、つらい思いをしましたが、じっと我慢の子でありました。

しかし、私のカメラ好きが理解できたのか、ある日のこと、近くの写真機店から青い箱の中にこげ茶色のケースに入った新品のカメラが届けられました。それがナント発売間もないミノルタオートマットでした。

ミノルタオートマットはローライオートマットの機構をそのまま受け継いだような素晴らしいカメラであることを後になって知ったのですが、その晩はいつものように枕元に置いて、夜の明けるのを今か今かと待ち侘びて、とうとう朝まで眠ることが出来ませんでした。あの新品のケースと、カメラのなんとも言えない香り!!!。それは現在に至っても決して忘れることはありません。

オートマットとは、フイルム巻上と同時にシャツターがセットされて、直ぐに次の撮影体制に入れるのです。
レンズはプロマー75ミリF3.5、3群4枚構成のテッサー型、シャツターはクラウンⅡの1秒~300分の1秒
ビューファインダーには前後移動式のパララックス自動補正装置が付いている優秀な二眼レフです。

ここに発表したミノルタオートマットは2台目ではありません。実はこのミノルタオートマットの素晴らしさが心に残っていましたので、先程紹介したクリスターフレックスの次に、購入したのが2台目のミノルタオートマットです。

このカメラはクリスターフレックスでの撮影でどうもレンズがシャープ過ぎと言うか、コントラストが強すぎて、特に人物撮影には適したレンズではないと考えていましたので、中古カメラ店でのミノルタオートマット探しが始まったのであります。

次には2台目のミノルタオートマットとの出会いと撮影感想を発表することと致します。

ミノルタオートマットの写真。

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by otc123jp | 2009-06-30 15:32 | 戦後の想い出
クリスターフレックス H21.6.27
やっと写真機を買いました。

クリスターフレックスの写真

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神戸三宮の駅の切符売り場で置き引きにあって依頼、写真機と言うものは私の手元にはありませんでした。

長男の誕生と共に、写真機による撮影心がムラムラと湧いてきましたので、何とかして手ごろな写真機を探していました。

住んでいた家の近くには小さな写真機店がありましたので、毎日帰り道にウインド゛ウを眺めながら、安くて良く写るものを物色していました。当時は4畳半メーカーから売り出される2眼レフがウインドウに並んでいましたが、生活費に追われて中々欲しいものを買うことが出来ません。

また、若い頃に使ったことのある、戦前の中古カメラも並んでいましたが、返ってその方が高価で到底買うことは出来ませんでした。

ある日のこと、新品同様で非常に安いスプリングカメラが目に留まりましたので、店の主人との交渉で安くしてもらい購入することにしました。そのカメラの名前は忘れもしません、戦後第1台目のカメラで、「サノンシックス」というカメラでありました。買った値段は覚えていません。しかし、嬉しかったのは言うまでもありません。

富士のパンクロフイルムをサービスに貰いましたので、あくる日の日曜日には長男の写真を撮影すべく、枕元に置いて寝ましたが、その日は中々眠ることが出来なくて、夜中に何度も起きてはカメラを眺めたり触ったりして夜の明けるのを待ちました。

写真のクリスターフレックスは、サノンシックスの次に購入したカメラで、一番長い期間使用したカメラです。
存念ながらそのサノンシックスのカメラの写真はございません。

では又明日。宜しく。
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by otc123jp | 2009-06-27 15:53 | 戦後の想い出
2階借りの生活 H21年6月26日
2階借りの生活
今までの3畳一間の生活からは、思いも寄らない程の広い部屋に落ち着くことが出来て、子供の誕生と共にどうやら、一人前の生活ができるようになりました。

しかし、炊事場はやはり1階にありましたので、2階では電熱器による軽い食事の準備しか出来ませんので、子供のいる家内には相当の重労働になっていたのは言うまでもありません。

思い出しましたが、私は大の酒好きのため、当時は合成清酒「お父さんの牛乳」を冷で飲みながらの子育ての毎日でした。

それでも、当時の住宅事情から考えば贅沢は言っておられません。早く良い家を見つけて子供を含めた家庭の団欒を夢見ての毎日が続きました。

当時勤務先は西区の江戸堀にある、大阪西郵便局で、懐かしい話になりますが、市電を利用して通勤をしていました。

ある日のことでした。それは昭和25年9月3日の未明からの暴風雨に見舞われ、出勤する時間には屋根を揺るがすほどの台風に変わって、到底外に出られるような事態ではありませんでした。これが、あの有名な「ジェーン台風」だったのであります。

風がおさまり雨も止んだので、外に出てみると、なんと市電の電車道は道路沿いの家からの瓦や塵が散乱し、街路樹もなぎ倒されて市電も不通となり、その日は約12キロ程の道を電車道に沿って勤務先まで行きましたが、ゆく先々で道路が水に溢れたり、決壊したところも多くありました。

約1時間30分程歩いて郵便局に到着しましたが、ナントその日に出勤していたのは全局員の3分の1程でしかありませんでした。と言うのは私の家からの道路は比較的高地になっていましたので、被害は少なく、水害の被害もあまりありませんでしたが、元住んでいた九条の家は勿論、その辺一体はそれこそ水害の被害が大きく、2階の窓まで水につかり、その時の光景は今思っても惨憺たるものでありました。

こんな時にラッキーと言うのも不心得ですが、九条の家から引っ越して間もないときの出来事で、今の家に引っ越してなければ、家財道具も全部水に浸かり全財産を失っていたかも知れないと思うと、あー良かったとため息をついていたのは事実でした。

今日はここまで、又明日。
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by otc123jp | 2009-06-26 17:27 | 戦後の想い出
長男の誕生の続き
♪ 探し探し求めて ♪ 
ある日の朝のことでした、諦めかけていた部屋探しに一つの光が差し込んできたのであります。現在も変えることなく引き続き愛読している「産経新聞」の広告欄の片隅に小さく「お部屋貸します」を見つけて、早速住所を調べて探すことにしました。

当時は電話なんて、夢の夢て゜したから、足を頼りに、テクテクと、勿論遠いところでは市電に乗ってという時代でしたからね。でも、苦労の甲斐あってか、何とか8畳一間と今で言えばフローリングのようなこれも6畳位の板の間が見付かったのであります。

勿論この部屋は、その家の2階にありましたが、1階の土間からは他の部屋に関係なく直ぐに2階の階段に上がることが出来、プライバシーに関しては抜群の環境でありました。

あっ、場所をいうのを忘れていましたが、ここは、天王寺動物園の直ぐ北側に位置する、下駄を生産する工場があるところでした。

ちょつと一服します。又の続きを宜しくね。
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by otc123jp | 2009-06-24 12:59 | 戦後の想い出
長男の誕生
昭和24年9月24日逓信病院にて長男誕生
最初の新婚生活のアットホームが3畳一間の二階借りでスタートしましたが、家内のお腹がどんどん大きくなり、子供が出来た暁にはこのままでは、十分な子育ては出来ないと思い、少し広い部屋を探していました。

当時は住宅難で中々思うような家?いや部屋なんて、本当に探すのは砂浜の中に落とした5円玉位に難しくて、早くしないと間に合わないという、少しあせりの気持ちがありました。

当時の家探し?部屋探しは、新聞広告の中から探すのが手っ取り早いとのことを先輩に聞きまして、毎朝の新聞の広告欄を目を皿のようにして見ていたものでした。ゴメン???今風呂が沸いたので、これから風呂に入り晩酌をすることになりますから、暫くおやすみします。
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by otc123jp | 2009-06-23 17:35 | 戦後の想い出
私達結婚しました。
家もない!!!金もない!!!食べ物もない。
昭和24年頃の大阪は、まだまだ復興の兆しが無く。勿論家なんてある訳がありません。当時の私は郵便局の寮、と言っても、桜川にあった電話局の焼け跡を改装して、20ばかりの部屋を作り、そこで友人と2人一緒の生活をしていましたので、甘い新婚生活なんかは到底望むことは無理だったのであります。

家内は布施の姉夫婦の家に居候。私は郵便局の寮で男2人の生活。現在のように何処にでもあるラブホテルですが、当時は焼け跡に少しばかりあったと思いますが、利用するには非常に高額なお金が掛かるために駄目。そこで、同室の友人に頼み込んで、その友人が宿直勤務の際に新婚生活を味うことになりました。

しかし、その寮の部屋はバラックのような作りのため、あちらこちらに隙間があり、廊下を通る人には部屋の中が丸見えなんでした。でもそこは若い2人のことです。一つの布団に仲良く並んで僅かの一時を一生懸命に子作り???に励んでいたものです。あくる日に出勤すると寮の友達に良く冷やかされていましたが、何故か幸福感が漲っていることを感じていたのであります。

同室の友人には迷惑を掛けながら、2人しての幸せを満喫することが出来たことを、今更ながらその友人に感謝しているところであります。それから暫くして、大阪は西区の九条に3畳一間の貸室を見付けて、本格的な???新婚生活が始まったのであります。次は長男誕生からのお話を掲載することにしますが、この長男は始めて寮の部屋で結ばれた時に授かった、記念すべき男子誕生の証となりました。

又明日。当時の思い出の写真がありませんので、文章ばかりでお許しくださいませ。キューちゃんでーす。
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by otc123jp | 2009-06-22 12:48 | 戦後の想い出
ダンス教室
楽しいダンス教室
当時は戦後の自由民主運動が盛んで、郵便局には労働組合があり、私は組合の青年部長をしていました。何分郵便局の組合は当時共産系の組合で、支部長をはじめ組合幹部らは管理者と同等の立場で物を言う時代でしたが、私は青年部長の立場を利用して、組合員のためのダンス教室を開くことになりました。

電信課勤務の頃、昼間の空き時間を活用し野田阪神にあるダンスレッスン場に通っていたことがありましたので、そこの先生から郵便局の若い男女のサークル活動にも効果があるので、教室を開いたらどうかと相談を受け、私も助手としてダンスを教えることになったのであります。

当時の郵便局には普通郵便局にも、特定郵便局にも若い女の子が勤務していましたので、組合を通じてダンス教室の呼びかけをすることになりました。

世はまさにアメリカナイズされて、特にダンスは若者にとって憧れの対象でしたから、呼び掛けに応じて、ナント若い女性が続々と集まり、自分の局のメンバーより特定局の女性がワンさと押しかけてきて、嬉しい悲鳴を上げていましたが、男性の不足から、女性同士のレッスンも始まり、私としては次から次と女性を誘い、ダンスのレッスンを続けていました。男冥利に尽きるとはこのことですね。

ここで、ある特定郵便局からきていた、女性の姉妹が他の人を超えてダンスの才能があり、素晴らしく上手でしたので、特に私が熱心に教えるようになり、次第にお茶や食事の付き合いが始まり。ダンスレッスンを超えた交際が始まったのです。

ただ女性二人が相手では本当のデートではなくて、何故か次第に2人きりのデートを望む心境になり、色々と話の内容が判るにつれて、姉妹の姉は既に結婚しているとのことで、それより後は次第に妹との2人きりのデートが続くようになりました。

ここで今回は終わりにしますが、この妹が私の結婚相手と決まり約1年の交際の末私の妻となったのであります。また次に報告します。オヤスミナサイ。

当時の妹の写真です。可愛かったね。

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by otc123jp | 2009-06-21 16:50 | 戦後の想い出
楽しい郵便局での色々
戦後の思い出NO.2 楽しかった毎日\(^o^)/
泊まり明け、泊まり明け、そして、日勤、と各番勤務の毎日が続きましたが、当時の勤務表によりますと、日勤の殆どは週休となり、夜の仕事ばかりの連続でした。まるで泥棒家業だねと友達にも言われていましたが、昼が休みということは、カメラ探訪には最高の条件だと、喜んでいたのであります。

何故か、泊まり勤務で、これが又楽しい想い出に繋がるエピソートがありますので、紹介することと致します。

当時の郵便局の電報の受付は、夜中でも緊急電報があり、仮眠はしていても、いつ窓口に来客があるか判らないので、気を緩めることは出来ません。しかし、毎晩そんな緊急電報があるわけではなく、待機中でも愉快なことがあることに気が付き、当時の中央電話局の泊まりの女性に無料の電話を掛けることを思い立ち、市外通話専用の105番に電話をして、交換嬢との会話を楽しむことにしたのであります。

「今晩3389しませんか?」という電話専用の合言葉で、楽しい会話を長々としていましたね。当時はお互いに若い者同士、勤務が明けたら映画でも見に行きませんか?等と、知らないもの同士が、デートの約束をするのでした。3389とはささやきですね。

勤務あけの9時に大阪駅の待合室「当時はありましたね」でね。お互いに知らないもの同士のデートですから
自分の服装、そして、相手の服装を聞きだして、心そはそはと、踊る心を抑えながらの楽しい一時でした。

泊まり勤務の寝不足なんかは何処かに吹っ飛んで、どんな可愛い子が来るのかと、目を皿のように光らせながら待ち合わせをしたのでした。

毎晩の泊りには、相手も変わりますから、先ず電話による相手の声を聞いての判断で、デートの約束が成立するのです。このようにして、デートの約束を成立させて映画や公園の散歩等をした女性はナント50人はくだらないと振り返って考えているところです。しかし、お互いに遊びの心を持ってのデートからか、あまりにも若かったことのせいか、セックスや結婚までの話などはあまりありませんでしたね。でも意気投合の上公園の草叢でのペッティング、焼け跡の暗い建物の影でのエッチ、またラブホテルまで同行した女性はありましたね。

このようにして、勤務あけの毎日を?有効に活用していましたが、やがて、電信課勤務から貯金課勤務にとなり、毎日が日勤で土曜日は半ドン、日曜日だけの休日となったのであります。

あまり長くなりますと、最後まで読んでくれる人がなくなりますので、ここら辺でお休みとします。またね。
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by otc123jp | 2009-06-20 16:10 | 戦後の想い出
焼け跡からの復興
戦後の大阪市内♪ ♪ 赤いリンゴに唇寄せて、黙って見ている青い空、リンゴは何にも知らないけれど、リンゴの気持ちは良く判る、リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ ♪ ♪
あの並木路子が歌う声が、戦争で焼け野原になった、大阪市内でラジオから流れてくるのを耳にしながら、私は大阪駅前からナンバまでの御堂筋を歩いていたのであります。

当時は大阪駅前の闇市で、中古カメラが並んでいるのを見ながら、指をくわえて我慢の連続でしたが、ある日のこと焼け残った阪急百貨店での中古カメラの即売会が目に付き、逸る心を抑えながら飛び込んでいたのでありましたした。

何処から集めたのか、懐かしいカメラ「ハンドカメラ、セミイコンタ、ミノルタフレックス、ローライコード」等それはあらゆるカメラが一堂に集められて販売されていたのでした。それに当時の価値では非常に安く、私でも購入できるほどの価格でしたので、想い出のカメラを購入し、帰宅してはそのカメラを眺めたり、手入れをして楽しんでいました。

話し忘れていましたが、当時私はある人の紹介で郵便局の電信課に勤務していましたが、電信課は殆どの勤務が泊まりでしたので、あくる日は明け勤務となり、昼は毎日仕事が無く退屈していましたので、阪急百貨店の休日以外は毎日カメラ売り場に出掛けて、今で言うウインドウショッピングよろしく、好きなカメラとのご対面
を繰り返していたのであります。

このようにして、郵便局の電信課に勤務出来たのは、航空通信学校での経験から、電報の発信や受信の仕事に就けたので、当時としては給料もたっぷりと頂いていました。勿論宿直手当が多いこともありましたが。

この続きはまたのことにしまして、今回はここらでおしまいに致します。最後まで熟読有難うございました。
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by otc123jp | 2009-06-19 15:45 | 戦後の想い出
終戦そして復員
「日本はポツダム宣言を受け入れました、長かった戦争が終わりました」「日本の兵隊さんは懐かしい故郷で、ご両親や奥さん、そして、可愛い子供さんの元に帰れますよ」

これは戦争当時からのデマ放送で、ラジオの電波から流れてくるものでした。私は陸軍の航空通信学校の助教で、毎日無線機からの放送をチェックしていましたので、その放送を聴いた時でもまさかとの思いで信用はしていなかったのであります、

ところが、それから3日程したある日のことでした。教育隊長からの訓示があるからと、校庭に全員集合が掛かりました。なんだか変な空気が校内に流れている中、隊長からは重々しい言葉で、戦争は終わった、各員軍からの指令を待て。それは昭和20年8月15日のことでありました。

何が何だか判らない内に、校内の生徒は直ちに帰郷の命令で全てが復員して、私らは残務整理等もあり、やっと8月30日になって、復員することになりました。

当時の私は母親の里である広島県の瀬戸内海に浮かぶ小さな島に復員することになり、身の回りのものを纏め、岡山県の勝間田にある日本原飛行場から、満員の復員列車に揺られ、尾道から巡航船に乗り、母の故郷である、弟達の待つ故郷に帰り着いたのであります。

勿論その時には私と一緒に軍隊生活を共にした「フォースデルビー」が肩に掛かっていましたね。でも、やがて、戦後の辛い生活が暫くの間続いたのは、例え母親の生家とはいえ、兵庫県の芦屋から戦火を逃れて疎開してきた我々家族にとっては本当に疎開者扱いもあって、米なんかは殆ど口にすることが無く、家族も皆んな痩せ細り、哀れな環境でありました。

こんな生活が約1年ほど続いた頃、今までの都会生活に馴れた私にとっては、とても我慢が出来なくて、田舎で工事関係の仕事をして得た小遣いを貯めては、神戸まで列車に揺られて遊びに来たものであります。

戦後はフイルムも不足でしたが、神戸の闇市に行けば買うことが出来ましたので、焼け跡や港の風景を撮影して、楽しく過ごしていたのであります。ところが、さあ大変、大阪にも出掛けて見たいと思って、阪急の三宮駅で切符を買うべく肩からカメラを下ろして、財布からお金を出しその切符を貰ってフト横を見ると、ナント我が愛する「フォースデルビー」が私の視野から完全に消失していたのであります。

この続きは又にします。思い出しても悲しい出来事でありました。(*^_^*)犯人が憎い。

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by otc123jp | 2009-06-17 17:05 | 戦後の想い出